もうね、なんというか・・・
ど、どうしよう、なんですけど?!


知らん、ということは、損をすることだなぁ・・・

そして、正直者はバカを見る だわ。

来年度からは上手にやる。

中国に送ったマスク入りの箱に
「山川異域、風月同天」
と書かれていた、というお話。

 長屋王が阿倍仲麻呂に託した1000枚の袈裟にこの漢詩を縫った

らしいです。

 山河は違えども、風も月も同じなのだから、
 同じ仏教を学ぶもの同志、手を携えましょう

的な意味なのだとか。

なんか、いいなぁ、この時にこの逸話を思い出すことが。
こういう風に使う知性って粋だわぁ。


2週間ほど前、
マスクがなくなりそうだったので、
(花粉症の家族がいるから、玄関にいつも1箱置いてあるのです)
ストックを1つ買い求めた、そのときはいつも通りだったのですよねぇ。

で、その翌日、用事があって近くのアウトレットに出かけたら
そのお隣のスーパーでマスク欠品。
「そうか、アウトレットには観光客沢山来るから・・・」
いつも中国や韓国の方らしき言葉のお客様多数の場所ですもんね、
そういえばいつもより少し空いていたかしら。
でも、近所のスーパーは昨日山積みだったもんね?
観光地以外の場所は大丈夫でしょって侮っていたら
あっという間にどこにもマスクがない状態に(ビックリ!)

まぁ、玄関のマスク箱は開けたてだし、
そのほか、箱のストックは家と職場に1箱ずつ。
しばらくは安心、とはいえ
なくなるまでにマスク不足が収束することを願ってます、切実に。
私はスギよりヒノキ花粉&黄砂のほうが辛いのだもの。

武漢には生物遺伝子系の研究施設があって、
そこから人造のウィルスが誤って撒かれてしまったのでは?
なんて説もあるらしいですね。
SFみたいな話だわ、
それと似たような設定を30年以上前に書かれた小松左京先生は偉大!


 

せいしゅはくげん・・・っていう四字熟語はない(ハズ)ですが。
「春夏秋冬」を表す色を並べてみました。

あけましておめでとうございます・・・って遅いですよね(苦笑)。
元気です。
去年はとりあえず「あれこれなんでもやってみる」を実践した1年でした。
資格取得→新しい職場ゲットとか
楽器を始めたり、第九を歌いに行ったり。

第九はとても楽しかったです。
私の入った団は、平均年齢が65歳よりちょっと下くらいのところで、
「初第九なんですー」っていうと、「まぁっ(ハートマーク)」って反応の
お姉さま方がもうあれやこれやと面倒を見て下さって、
なんというか受け入れて頂いている感満載♪
休憩時間は見知らぬ方からでも飴玉をどうぞって渡されるし(関西のおばちゃんは飴ちゃんを必ずバッグに持ってます(笑))
以前息子のPTA活動で合唱をしたときは、周囲の皆さまが上品でいらして、
自分の声しか聞こえない状態だったのですが、
流石、自分からお金を払って何度も第九を歌っていらっしゃるお姉さま方は
年齢を重ねておられてもとても良いお声をしていらして。

存分に腹の底から声を出しても、全然目立たないって!\( ’ω’)/(喜)

ってことで、ちょっと痩せました。
きっと大声出したのと、練習場への通勤?が功を為したのだと思います。

けれど、今年はどうしようかなぁ・・・と考え中です。
実は「人手不足」の影響で、長男グループホームが週6開設となり、
日曜の朝から月曜朝まで自宅で過ごさなくてはならなくなった(涙)
なので、土日で旅行♪なんて予定は組めなくなりました。

まぁそれでも、平日預かって頂けるだけでも、とっても助かってるから!
第九=日曜日に練習がある はムリでしょうが、そのほかの何かを見つけよう。

とりあえず、地元の七福神を祀った神社巡りを企画中です♪

こんな私ですが、今年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m



*--

今日は「あの日」なんだなぁ・・・と。

今朝は何故か目覚まし鳴るより少し前に愛猫に起こされました。
・・・コヤツ、実は何かの生まれ変わりなのかしらん???
東遊園地までは行かなかったけれども、
一人、黙とうを捧げました。

我が家は激震地域ではなかったから。
「被災地」市民であっても、被災者という意識が低いです。
むしろ、近くにいながら何もできなかった自分、
あまり被害を受けなかった自分、
という状況に、引け目を感じることさえあります。

東西の道路は寸断が激しかったのだけれど、
我が家方面の道路は比較的繋がっていたので、
そういえばあの年の1、2月中って毎日誰かがお風呂に入りに来ていました。
親戚はもちろん、会社の同僚だの、親戚の知り合い、お友だち、などなど・・・
全然見ず知らずの人もいたし、
脱衣場のタオル掛けが壊されたなんて事件もあったなぁ(笑)

大したことはできなかったけれど、暖かいものを食べて頂きたくて。
田舎なので外に出れば畑に売るほど大根や白菜があるわけです。
だから毎日のように土鍋2つ分、おでんやら鍋ものを作っておふるまいしたなぁ、なんていろいろと思い出しました。

婦人会の炊きだし活動で山のようにおむすび作った、とか、
ダンナは地域消防で何日も出かけた、とか、
被災マンションに住む友人たちのお引越し手伝いに何度も行った、とか。

マンションの廊下に亀裂が入っていて、
4階なんだけれども、その隙間から地面が見えた。とか、
一階から入室できず、お隣のおうちから飛び移って中からドア蹴破ったとか、
半分落ちかけている文化住宅の2階に潜り込んで貴重品取り出した、
そんな経験なかなかできないですよねぇ、全部やったけど(笑)

親しい知り合いで実家も含めて被災した人は結構いるのです。
でも亡くなった方がいなかったから、割とのんびりした
武勇伝的な思い出が多いのですね、きっと。

あぁ、でも高校の同級生に亡くなった方がいます。
中学はどうだったのだか、同窓会がないからちっともわからないや。
地域からいえば激震地ど真ん中で燃えた地区もあった学区だから、
ひょっとすると知らないだけなのかもしれません。

25年も経つといろいろ変化がありますね・・・。
何より「あの時こうだったよねー」って思い出して分かち合うべき
パートナーが横にいないじゃないか(^_^;

次がないに越したことはないけれど
次のときにダンナの力や知恵があてにできないのは確かな事実。
子どもたちに「伝える」ことで、何らかの経験値を植えてあげないといけないのだなぁって感じています。

しかし・・・ネコさま連れて、避難所は行けないなぁ・・・
シミュレートしとかないとダメですねえ。



自己満足、という言葉をずっと、どことなく後ろめたい悪い意味でとらえていました。
要は「自分だけが満足してりゃそれでいいのかよっ」という負の考え方がどこかに感じられるのでしょう。

でも・・・
自分さえも満足できていない活動で、他の何を助けられるというのだろう?
とも思えてきた今日この頃です。

本当にイケナイのは、
「自己満足に過ぎないから」なんて理由で動かない自分
のほうなんじゃないかな。

自己満足、上等じゃん♪



というわけで、今年からあれこれとやり始めて
自己満足に浸りまくっております。
ただし「満足」しているのは「始めることに着手した」点においてだけ、
なんですけどね。

新しく始めた仕事も楽器も合唱も、
まだまだ「満足」ってほどの評価を与えられるデキではないから。
それでも。
始めたことには意味があるかな、って点で満足です。

なんてことを実家の母と話していたら

「あーたはきっと更年期障害とは無縁ね」
「え?そうかなぁ?」
「だって思うがままに暮らせるってストレスないじゃない?」

母曰く、ストレスない人って、更年期と縁遠い感じあるよね?って。
うーん、まぁそうかもしれないんだけど。

「そういう母は、更年期障害、ヒドかったんだっけ?(聞いた覚えがないなぁ)」
「あ、そういえば私もほとんどなかったわねぇ」

えーと。

いいわねぇ、アナタ、そんなに好きな事一度に始められるなんて幸せよ、
私はその時代、ちょっと苦労してたからねぇ
(注※私が理由で苦労していたわけではないです、私は結構ヨイコだった (笑))

って、ついさっきそんな話してたよね?
その舌の根乾かぬうちにこの会話ってwww

結論。
私が今のところ更年期障害にあまり苦しんでいないのは
母からの優秀なる遺伝のおかげ、らしい。
ありがたや、です(笑)



なんというのだか。
我が家の家計簿においてキャットフードは「食費」なのですよ!
だって「家族が食べるもの」だもの。

でも軽減税率扱いではないのね。
「人の食べるもの」でないと軽減されないのですってね。
むっとしている愛犬家・愛猫家は沢山おられることと思います!

千葉があんなふうで大変で、
佐賀だって豪雨の被害があって
(あの流出油はどうなったのでしょう・・・最近とんと情報ないですが)
建築のあれこれは10月から10%消費税かかるんだぜい?
新たに購入するのと、被災からの再建で、税率変えてあげるくらいしても
バチあたらないと思います、ホント。


幼児教育無償化って話もあるけれど、
私の周囲は「方向性違う」って怒っている人が多いです。
その方々は働きながらママしている人が多くて、曰く、
「まっとうに会社員やっていれば、そこそこ高くても保育料なんとか払える」

そうだわ、私も長男のとき、乳児を預ける、夫婦それぞれ会社員である、と、
月の保育料は最高額の4万近い額に査定されたけれど払えなくはなかった。
そして今、保育料を払っている世帯はその頃の私たちと似たような収入の世帯のはず。

ならば、軽減されるのは、本当に困っている人たちではないんじゃないの?
・・・が我が友人たちの論旨。
言われてみれば、そうなのかも。

低収入家庭にはもう福祉が入っていて、保育料は相当に抑えられている、
それは長男発病以来の我が家の下のコたちで自分も恩恵を受けたから良く知っている。

「保育料、タダになるらしいよ」
で突然働きだす気持ちになった人たちがみな、
今回無償化の恩恵を受ける人たちのような正社員勤務と同程度の収入になる?
この日本社会、大きな企業へはそんなに簡単に中途再就職できないよ?
パート勤務で保育園に預けるならば残念ながら年収は高くはないでしょう、
ならば今のままでも「保育料は安いor無償」のはずなんだけど・・・?

全額免除ではなく今より少し安くする、にとどめて、
その分、保育士さんたちの待遇改善にお金を使うべきなのでは。
「タダ?じゃ預けて働こう!」という人が増えるのはよいけれども、
受け入れ先である保育園の手が足りなくてだから待機が増える、となったら
本末転倒なんじゃ?と思っています。

・・・とかいいながら、
大学無償化はほぼ恩恵にあずかれる部分だから、
早くそうならないかなぁなんて考えちゃう、私は俗物(^_^;
しかし、大学学費、高いわー。
自分のときの4倍くらいの額だもの、ガクゼン。


さて、表題。

便利な場所に引っ越しして、介護からも解放された今、
自分の思うままに使える時間の何と多いことか。

というわけで、読書量が増えています。
ここのところは、朝井まかて氏著作を順番に追っかけ。
いやー、好きです、この作家さん。

歴史に名をとどめたような人が主人公ではなくて、
市井の人間が主役である話が多く、
終わり方も希望があったり、ほっこりしたりの後味さっぱり♪ というところが
私の好みにドンピシャなのですよね。

まかて作品が書架にないときは、宮下奈都著作を。
という風に、作家さんを追いかけるのが外れがなくて良いみたいです。

徒歩圏内に図書館があるので、
1冊読んで、返したら次の本借りて、という
月2冊以上の安定した読書を楽しんでいます。

・・・しかし、お二方の著作は多くはないから。
読み切っちゃったら次はどうしようかしら。
ゼイタクな悩みですね。


経済的には窮々?ですが、精神的にはまったり優雅(笑)
身の丈に合った暮らしをこれから更に追及しましょうか、うんうん。


いやー、この年齢で就職活動してみると、
履歴書を受け付けてもらえるだけでラッキーって感じ。
問答無用で突き返されることのなんと多いことか。

・・・人手不足って云ってるの、なんだろね?
若手不足、の間違いなんじゃ?(苦笑)
とはいえ、こちらも相手を選んでいるから、ということはあるのでしょうねぇ。

先日、1件、新たな勤め先をゲットしました。
徒歩圏内のクリニックでカルテ入力の仕事です。
春からの勉強&資格、就活にちょっとは役に立ったのかしら。
まぁ、就職に役立たなかったとしても、知識は力なのだと最近思います。

けれども、逆に、自分の基本的な知識のなさにウンザリすることもしばしば。
だってね・・・
水道管詰まったら、ベランダの窓ガラスが割れちゃったら、
どう行動したらいいのか、って未だによくわかってないんですもの(苦笑)

そうならないためにはどうすればいいか、はわかっているんですよ、
だから困ったことがない、困ったことがないからどうしなくても問題なくて、
だからどうすればよいのかわからないまま時間が過ぎて・・・(堂々巡り)

そういうのって、学校では教えてくれなかった、気がします・・・(^_^;
困ったときにはここでヘルプー!って叫んでもよいですか?
どなたかどうぞ無知な私に教えてやってくださいマセm(_ _)m

ねんきぼうこう:ある一定の期間、無給で奉公をすること


芸人さんの「闇営業」の話題、なんとなく釈然としない気持ちで読んでいました。
反社会勢力を迎合したのはよくない、ってのは分かります。
そして「お金もろうてへん」ってウソ主張したのもアカンかった。
そこは理解しています、正論です。

ただ軽く首をひねるのは
「じゃあお金をもらわなかったらよかったの?」
ってコトなのです。
最初「お代は頂いてないからセーフ!」的発言が目立ちましたから。


私の友人の複数に音楽や美術を生業にしている人がいます。
中でも「声楽」を職業にしている友から、幾度となく嘆きを聞いてきました。

「サロンコンサートの話が来たんだけどね?
 それがさぁ・・・」

モチロンこの仕事は「反社会勢力から」ではないです。
どちらかというと公共に近いような場所からのアポイントで。
けれども。

「15分くらいちょこっと歌ってくれないか、って話だったんだけれども」

この「ちょこっと」が曲者だったわけです。
つまり、「歌う」なんてことは、その人が来るだけでできちゃうわけだから、カンタンにできるよね、無料でやってよ、という・・・

 はぁ?!

です。

彼女は、大きなオペラのオーディションを勝ち抜いてプリマの席を得て、
その看板を背負ってコンサートも開いてきた人。
そんな「プロフェッショナル」の「芸事」を
「カンタンにできる」って云う、その口をつねってやりたいっ(怒)

どれだけレッスンを積み、喉や体の調整に気を使って生活をしているのか。
もっと言うなら衣装代だって、伴奏者の手配だってお金かかるんだよ?
当たり前だけれど、その時間、彼女は拘束されるんでしょ?
場所に行く交通費だってタダじゃない。

場数踏んで舞台度胸をつけたい音大の学生さんなんかにはとても良いお話しと思う。
しかしそれだって、できれば弁当代・交通費くらいは出してあげて欲しいわ。
だって、そちらはそれで「集客」するのでしょう?
対価あって当たり前だと思うのです。

(無給医のニュースも胸が痛いです・・・これこそ「年期奉公」な話ですが
 でも方向が違うので今回はこちらには触れないでおく)


さて、話を戻します。
今回の芸人さんの件、
「闇営業」と言っている「闇」は一体何を指しているのでしょう?

音楽家も芸人さんも、自分の芸を売るのが仕事。
声楽家の彼女も●●●協会みたいなところには所属しているけれど、
個人でコンサートも開くし、学校の非常勤講師もするし、
自宅で個別レッスンもする、それで生活をしています。
そしてもちろん●●●協会主催のコンサートにも出ますけれども。

ただし、●●●協会と専属契約ではなく「月給」も存在しません。
●●●協会主催の会があるとき、声をかけてもらい、
ほんの僅かなお代を頂く、そういう関係です。
個人事業主の集合体として●●●協会がある、そんな印象でいます。

折しも政治は「副業を許可する」方向で動いていたハズ。
たとえば、ITの知識のある人が、雇用されている会社とは別の会社で
副業としてIT系のアドバイザーをするのはありだと聞いています。

正式な雇用関係を結ぶ「企業」でさえもそんなスタンスに変わりつつある世の中。
とすれば「エージェントを通さない仕事」なんて普通にあってよいのことなのでは。
通さない方が安くつくよ、はい、わかりますよ、マージンないものね。

ただし、●●●協会を通さないのだから、
自分で選択したことに自分がすべて責任を持たなくてはならない。
会社を通さずに話をした相手側だとて、出演者が何かミスをしても、
規模の大きなエージェントに保証はしてもらえない、というリスクを背負うのが普通。
それは自営業なら当たり前のことで、契約先の相手が誰なのかの判断をミスし、責められるのは分かります。
芸事を自分の資産だと思うなら、知り合いだから安請け合い、ということはNGであると理解していなくてはならないってコトです。
そして、そんなミスをしたヤツ、庇いきれないから契約解除ね、という
エージェントの立場もわかります。

でも「お金もらってないボランティアだったから」
反社会勢力の会に出たことは(相手が誰かと知らなかったのだから)OK、は
違っていると思えてならないのです。

むしろエージェント側は、お金貰わずに「芸事売る」方にペナルティ課すべきだと思いません?
だって自分ちの「看板商品」をタダ売りされたら市場の商品価値が下がるじゃない?


なんていうのかな、日本って、
「具体的な形のないモノ」に対して、価値(=お金?)や敬意を払う、っていう
そういう文化は根付いていないような印象を受けました。

文系の学科は不要だから大学から駆逐しちゃえ、なんて方針が出てるのも
文化への認知が低いから?
理系学科だけで人間力が高まるかというと、そうじゃない気がするのですが。
あ、話がちょっとばかり極論です(苦笑)



いぶんかいゆう 
文を送ってお友だちに「会おう♪」っていうこと・・・ではなくて、
「文化」を以て同志を集める という意味らしいです(^^;

今年に入ってから「文」を書く時間を増やしました。
「ぶん」ではなくて「ふみ」
つまり、お手紙です。

もともと文字を書くのが苦痛になる人間ではなかった。
とはいえ、メールだのSNSだの便利なものが山のようにあるのだから
わざわざ時間のかかる封書をしたためることなどこの頃はなかった。

のですが、

あるとき文具店でふと万年筆に目が留まったのです。
アウロラだのモンブランだのの高級品ではありません。
プラスチック製のおもちゃのような代物。
あぁ、懐かしいな、中学生くらいのときこんなの使ってたなぁ?
って思い出してついお買い上げしてしまった。

で、広告の裏に文字を書いてみた。
安い割に、ペン先の感覚が気持ちよい、ひっかかりもない。
ボールペンと違って、筆圧によって字の太さが違って書けるのもいい。

心地よさを再確認すると、使いたい気持ちがふつふつと沸いてきます。
とはいえ「書く」という行為、
行政に書類を出す、以外ですることって・・・あまりないんですよね。

しかし、書きたい。
万年筆、LOVEな心が舞い上がって、、、友を巻き添えにしました(笑)

まずは即座のメールお返事を書きそびれてしまった友人へ
返事が遅れたお詫びやら、近況伺いやらをしたためた。
切手は手持ちの記念切手、額面が80円っていつ買った代物?
犬柄の2円切手(これも常備してある(笑))を追加で貼って
ポストにぽとん。

しばらくすると、彼女から封書でお返事。
封を切るときのワクワク感。
よいなぁ、これはメールでは味わえないわ。

郵便受けに、ダイレクトメール以外の華やかな封筒。
文をしたためるその時間は送る相手のことだけを考えている、
その数分間が尊いなぁってありがたい。

しかし、暫くすると気にかかるのです。
だって、封書でご連絡すると、かなりのお返事は封書で帰ってくる。
私は楽しくやっているけれども、これって相手に強要していない?

あかんぞ、これは、と思った私は、
ひとこと添えることにしました。

「手を動かすことは、ボケ防止に役立つらしいので、
 アンチエイジングのために手紙にしました」

だから、お返事はムリしないでね、って。

そこから、
忙しい友はメールで「届いた~」って連絡をくれ、
同じように文字を書くことが好きな友からは、
「記念切手選ぶのも楽しい♪」
なんて封書が届くようになりました。
そしてもし反応がなくても、気にしない、そう自分に戒めました。

・・・ふふふ、これで遠慮なくお手紙送れる♪
とはいえ、頻繁だとやはりご迷惑だろうから
間隔と内容は考えなくちゃ、ではあります。

地元の老舗文具店でオリジナルカラーのインクを沢山販売しているという話を聞き、
カートリッジにはない色合いの小さなボトルインクも買いました。
綺麗な葡萄色。
この色を使い切った次は散々迷った深緑色にしよっかなー♪
買った安物の万年筆はカートリッジ式のものだけれど、
コンバータがあると、そんな楽しみ方もできます。

そして売り場にはインクだけではなく、
「万年筆」以前の「ボトルに浸けて書くタイプ」のペンがずらりと並んでいました。
ペン軸・ペン先はガラス製で、本当にキレイ。
美術品みたいです。

羽ペンは耐久性(とか動物保護もかしら?)の面でどうかなのでしょうが
ガラスはいいですねぇ。
本当に「趣味人のつかうお道具」という感じ。

友人の中には、
「大昔の万年筆を探し出して、洗って使ってみた」
なんてお返事下さる方もおられて、万年筆の輪が広がりつつあります♪
その彼女のご子息に、進学祝いとして
私が使っているのと同じプラスチック製万年筆をプレゼントしました。

意外なことに若い彼も、なかなかに愉しんでいる様子とのこと。
うちのコ曰く、
「他の人とはちょっと違ったものを使っている意識が厨2病的感覚をくすぐる」
のだそうな(笑)
中学時代の私が今の私となったように、将来彼らも万年筆で文をしたためる、
そんなことをしてくれるようになればよいなぁ。

昭和なアナログの「モノ」たちが持つ便利すぎないからこその温かみ、
使ってみないことには気づかないですものね。

というわけで、今日も私はペンを執る。
今日の送り先は、高校時代の友人。

しかしながら、
封書82円、ハガキ62円
(秋に消費税が上がると、84円になるんですってねぇ・・・)
10通出せば1000円弱の費用がかかるのだなぁ、と考えると
経済面・即時性ではメールに軍配上がります(^_^;

文を書く、ということもまた、趣味、というカテゴリーだなぁ。
趣味ってお金がかかる、でも気持ちは確かに豊かになる。

趣味を文化とするなら、私の手紙だって以文会友というのかな(笑)


もともとは「不言実行」なのに、このコトバが当たり前のようになってきている気がします。
いわゆる新語に目くじら立てる人もいるし、私自身も相変わらず「ご注文のほう伺います」の「ほう」は気持ち悪いって思っちゃいますが(苦笑)
遊びのない言葉なんてツマンナイとも思います。
でも「不言実行」が本家だっていうのは忘れずにいよう(笑)

去年、長男が思わぬ自立を果たし、「自在にできる時間」が増えました。
最初は唖然としたまま、ぼんやりと過ぎておりました。
介護中心の生活が20年、自在な時間の使い方なんて忘れてしまっていたのかも。

半年くらいたった年末、はっと気づく。
他人様のお力でできたこの自由時間、ムダに過ごしていちゃいけないんじゃ?

そうだよ、何か始めよう!
子どもの受験も終わり、それでは、というわけで、
「元号変換の年」はやりたかったことに挑戦する年、としました。

今からの私に必要なもの。
まずは少し仕事を増やそう、老後の資金を貯めたい=切実。
そして子どもたちが自立して離れてゆくなら、今後一人で楽しむ何かをいくつか見つけていこう。

コンセプトはこの2つです(笑)

じゃまずは、履歴書の彩を、なんて軽い考えで、資格試験に挑戦。
医療系の認定試験は一つゲットできました。
今はOA処理系取得目指して勉強中です。
たぶん自分がやりたいと思う職種にはなかなかつけないのだろうなと思う、
やっぱり若い人が求められるから。
けれど現代は人材不足なんて言っているからあわよくば潜り込めたらいいなぁ。
就活はこれから、きっと落ちまくるだろうけれどもメゲないでもいいや、って気分。
それはソレ、資格や知識は自分のモノだものね♪

フルートもレッスン受け始めました!
楽器の持ち方、構え方からもう既に目から鱗ぽろぽろ。
どうしようかなぁ、と迷っていた年末の第九も応募してみて、
なんとか抽選に通った様子。
来月からは隔週で練習、さてどんな出会いがあるのでしょう♪

一から何かを習うということが楽しくて仕方がありません。
うふふ、うふふ、ばっかの日々♪


考えるとあと半月で2019年は半分終わり・・・早いっ!
こちらにも「あれやりたーい」「これもやっておくー」なんて
ぼそぼそ書いた覚えがありますので、
私なりに頑張ったことをほめて頂こうと思っての記載(笑)




あたらしい元号最初の日記がコレかぁ…(哀)

私、右折・直進事故の当事者になったことがあります。

私は直進側、山から下っていて、
遠くの前方に右折で「停止している」車がおり注視していたら
こともあろうにゆるゆると動き出して
結果として、その交差点で私の右前方が相手方の助手席ドアにぶつかり
直進車線の真ん中で停まりました。

相手が右折開始してすぐにブレーキべたで踏んだけれど、
急な坂を下っていたこともあり衝突を避けられなかった。

私のブレーキ痕を見た警察の方が、
 追い越し車線走行でここからブレーキかけてそれでも当たるって・・・
と絶句、
(つまり、こちらが右折開始を見つけてブレーキ踏んでから
 事故現場までにはそれなりに距離があり、
 追い越し車線ということは曲がりっぱな側、
 相手がぱぱっと曲がっていれば普通は事故にならない状況とのこと。
 てか、無理くり曲がるのだったら急げよ、
 急いで曲がる気がないならちょい待てよ、って話です)

結果としては9.5割相手が悪いとなりましたが車は廃車になりました。

右直事故の場合、直進も3~1割悪いとされるパターンが多いのだそうです。
直進側にあるのは前方注意義務
でもブレーキ跡からみて注視は認められる、
あとは速度超過がすこしあったんじゃない?疑惑が残って0.5割。
また私の場合は点滅信号があったけれども厳密には「交差点」ではなく、
直進側は県道、相手側は私有地に入るための右折だったために
更にこちらの責任が軽くなった、らしいです。


大津の事故。
なんかね。
一つでも違う判断していたら防げたのにって、悔しいですよ・・・。

もちろん一番悪いのは何も考えずに、
前の車が行けたからって右折しちゃった人。
この人が停止・確認していれば、何も問題なかった。

でも直進車側もちゃんと前方みていなかったということだと
日々運転している私は思っています。

だってなんでブレーキ踏めないの?
ハンドル切る判断できたのなら、その時点でブレーキ踏んでいたら。
平らな道で法定速度、だったのだから停まれたかも?
後ろが追突するかもしれない、って怖かった?
でも前突っ込まれるのと後ろオカマ掘られるのと、
どっちだって自分に問題なしとされるのは一緒なんだよ?

そしてどうして左にハンドル切ったのかなぁ・・・。
左に切っても避けられないのよ、普通は。
多分、教習所でもそう教えていたんじゃないかな。
右に切る方がまだ、避けられる可能性もその場で停まる可能性も高まる。
(でも対向車線の別の車に突っ込む可能性もあるから推奨できない(苦笑))

だからこそ。
前方で右折車が何台かいたら、
自分の前でも突っ込んでくる可能性をどこか頭の隅っこで考えている。
アクセルにある足を緩めて、いつでもブレーキ踏めるように緊張している。

どん、ってぶつかってからブレーキ踏むってことはなかなかできない。
それは体験したからこそわかる。
慣性で左に車が吹っ飛ばされたとき、
この直進運転手はたぶん、アクセルに足があったのじゃないかな。

結局、この車の運転手には悪意はまったくないのが更にツライ。
あそこに園児がいなければ、単純な交通事故。
いろいろ偶然が重なりすぎている、でも現実であるという悲劇。
右折車の運転手を叩くのは簡単だけれど、やるせない。

複数人からむ死亡事故の責任って・・・
直接原因は右折側だとしても、直進側だって数割の責任。
どれだけ重たいものなのだろう。
何人の日常が変わってしまったのだろう。

教習所や免許更新のときに、シミュレータでこういう
「事故を起こしたときの体験」ってできないものなのかと思います。
経験則があれば、怠惰な運転を律することも多くなるから。



で、ちょっと話が外れるけれども。
気になるのは、この運転手二人の肩書が「無職」。
50代60代の女性で「無職」・・・
あぁ、私もそうかも?パート職員、って表記はないんだ?

いろいろと他人事ではない。
明日は我が身、にならぬよう、気を引き締めてハンドル握らなくちゃ。




めいそんじつぼう 名前だけが残って、実質はもうなくなってしまっていること


なんというかね、面倒です。
何がって、個人情報保護だとかあれこれです。

障がい者が施設を利用するのには当然、利用料がかかります。
今時ですからその支払いは、金融機関からの引き落としです。

ところがー。

その「金融機関」に口座を開くのに「当人の意思がないと認められない」のですって。

悪いことに利用されちゃかなわないから、ってのは分かりますが・・・。
なんてのか、新規開設する理由を尋ねて、
第三者=振込先の施設にその件をちゃんと証明してもらって
それでもダメですかね?

我が家の場合、施設利用料の振込はゆうちょしかダメな企業で、
そのゆうちょ銀行の口座、本人名義のものがなかったのです。
今は私名義の口座から落としていますが、
もしも私になんぞあって口座凍結されたりしたら?
利用料金を支払うことができないという事態になっちゃうのは大変困る。

だってそういう事態になっているということは、
彼の身の回りあれこれをちゃっちゃとやる人間は誰もいないという状況なのですから。

というわけで、本人の年金振込口座にゆうちょ銀行を指定、
そしてそこから落ちる、という段取りに是非ともしたいところと考えた。
それなら残高のある間は、とりあえず基本的な生活は確保できますからね。

なのにねー、口座開くのに
「本人の意思が認められる」か「成年後見人を付けろ」ですってさ。

そりゃいずれは成年後見人もつけなくちゃいけないでしょう。
でも単純に「口座を作る」だけのために、そんな手続きや費用支出できません。

・・・まぁ、当人連れていって、なんとか手配できましたけれども。
その「当人連れていく」って手間だって、結構大層です。
車いすで入れて、場所に余裕があるゆうちょ銀行窓口をわざわざ選びます。
いわゆる本局へ行きました、つまり待ち時間も、長いです(苦笑)


うちのコはたまたま生まれてスグに銀行の口座を開いていたので、まだまし。
都銀系は、小学校を卒業する年齢になると、
「本人がサインした書類」がないと口座開設を認めてくれません。

・・・書けねーっつーの。

とママ友が嘆いておりました。
彼女のお嬢さんの通所施設は銀行振り込み基本なんだそうです。


口座を作ったとき、事務処理を待っていたら初老のご夫婦がやってきて、
「振込をしたい」と伝票を窓口へ。

ところがどうやらその振込金額が大きかった模様で。

「写真つきの身分証明書がないと、この金額の振込はできないんです」

職員さんはそうおっしゃる。
けれど振り込む人である奥様は
「困ったわ、私、免許証もっていないから」

結局、振込人の名前を免許証をお持ちのご主人の名前に、
奥様の名前を添えた形で振り込むということにしてなんとか送金を終えたご様子でしたが。

「なんだよ、何のための窓口なんだよ?」
ってぶつぶつボヤくご主人。

その通りだわねぇ、と思いました。
送金先はレッキとした大きな流通大手の通販会社のようでした。
送金先の振込番号があるのだろうから、
ゆうちょ銀行でもって「保証されている番号」を検索できるようにして、
そういう相手に対する送金は証明書なくても振込できるようにすれば解決じゃないの?

 ※ついでにいうなら、ゆうちょ口座を持っていて、
 ATM操作で送金するのなら問題なくできます、って話も出ていました。
 (で、奥様はゆうちょ口座をお持ちでないとのことでした)
 でもね、ATMで確認できるのなら、窓口端末で確認することだって
 そんなに難なくできるハズなんです。
 なぜそれをしないのか?
 では人を配置してまである窓口は、何のためにあるの?
 
法律か何かで取り決めがあって、仕方がないのでしょうか。

つまりはなにかしら。
免許証がないのなら、かの「マイナンバーカード」を作っておかないと、
送金すらもできない、日常生活にも不自由するってそういうことのようですね?

あぁ、昭和が懐かしいよ、何事にもおおらかだったわ(苦笑)

・・・そして「昭和」について新中1生の母である友人に聞いた話ですが、
小学校の歴史の教科書では「昭和」はもう「近代史」なのですと!
いやはや。


真ん中の卒業式に当たって、準礼服一式を衝動買い。
スーツ・トレンチコート・靴。

普段は「オール柳井」上等、な私なのに、
せっかくだし、と今回はそれなりのものにした。

そういえばこの冬、
手持ちのダウンコートがかなりヨレていたので、
ダウンも新しいのに替えたばかりだったのだった。

やばい、支出、半端ない!
いつもの被服費と桁が違う!
うわー、やめておけばよかったかなぁ・・・。
けれど、なんとなく、ウキウキ感があるのは否めない(笑)

しかしスーツ。新調は何年振りでしょうか。
数年前に「就活用」みたいな吊るしのを1回買ったかな。
あ、喪服もパンツのものを1式新調したなぁ。
その前は、子どものどれかの入学式の時かな。
あらあら、式礼服ばかり(^_^;

「式」に出席するのもあと数回。
滅多にない機会だもの、滅多にないことをしたってバチは当たらないよね?
なんて心に言い訳。

こんな愉しみもたまには・・・うん、まぁ、いいのだ。
依存になっちゃいかんけれど。
口実でもないと、ムダにこのウキウキを愉しむ自信はない(苦笑)
しかし、やっぱり、楽しいんだもん、お洋服の買い物って!

その代わりの代償?といってはナンですが、
体形変わらずあと数年はこのスーツで闊歩できる自分でいないとね。

じじょうじばく 自分でこうであると決めつけて動きがとれなくなること


この2年間は大転換な月日で、変化を嫌う私が
一世一代な気分の思い切ったこと=転居をやり切ったわけですが。

出て行く前に同居していた夫の親とはそれなりに付き合いが続いています。
それは多分、義父の度量の大きさによるもの。
どう考えても一般的には私が相当な不義理を働いたのだから、
「もう顔も見たくない」と言われたっておかしくないのに
普通に対応してくださるので。
月に1度2度は顔を見に行きます。

でもね・・・
この間言われた言葉に動揺しちゃいました。
つまり、

「孫たちのいずれかがこの家に戻ってきて、
 農業しないでもいいから田畑と家屋敷を継いでほしいと思っている」

気持ちは、分かりますけれども。
若い頃から苦労をして丹精した土地を、このまま手放したくない、
生まれたときから傍にいた「内孫」が継いでくれたら、というその気持ち。

ただ・・・正直言うと、
ダンナが早世してしまったのは、この土地に住んでいたから、
とどこかで思っています、私。

義父母は悪い人ではない。
ただ、この土地からいままで一度も出たことがない人たちだから。
ここと別の土地と両方を使って生活をする、その苦労を肌で感じたことはない。

JRの駅まで20分、そこから電車に40分揺られれば都心部に出られる。
恐らく近隣の「ベッドタウン」と立地条件は変わらない。
となれば、そこを住居とするのもありなんじゃない?と考えてもよいのかもしれない。
義父の頭にもそれがあって、
「だって息子(=ダンナ)だってそれをやっていたじゃないか」
と、だから孫もここに住んだって生活成立できると考えているのだと思う。

ご近所づきあいだって少しは楽になっているだろう。
頭が固くて、わけわからんことをいう老害めいた方が引退しちゃったから(苦笑)

でもねー、違うんだなぁ。
いわゆる住宅地で過ごすことに比べて、細かな苦労のなんと多いことか。
そして「住民」がやらなくてはならないことが減っているとは思えない。

道端の雑草刈り、自治会内にある寺社の維持管理、
自治に関わる行政とのやりとり、自治消防、農業施策。
これらをすべて住民の力で賄う。
そして、それを支える自治会員の恐ろしいほどの高齢化。


長男だから、〇〇しなくてはならない、
跡継ぎだから、〇〇しなくてはならない

そんな思いでがんじがらめになって、
遠距離の通勤をがんばって、オーバーペースで仕事をして、体を壊して。
それでも、そんな状態でも、
▲▲は順番だから、他に人がいないから、引き受けてやってもらわないと、
なんて容赦なく言われて、やらされて。
会社員・農家の跡取り・自治会役員・消防団員・・・e.t.c...
どれだけワラジを履いているの?といった有様で。
やるといったからにはそれなりに頑張って。
嫁の言葉より、体の悲鳴より、家の体裁だとか責任感を優先した。
自分で、自分を縛り付けた。

で、挙句・・・だったダンナ。


そんな呪縛が満ち満ちていそうなところに、子どもを放り込みたいだなんて誰が思う?
私は、イヤだ。

あの土地を離れたかった理由はたくさんあったけれど、
そういう「しなくてはならない」縛りから子どもを守りたい、
そんな気持ちだって、理由の一つだった。

農地を、ムリなく自分が耕作したり、誰かに貸すことがあるのなら、よい。
それがなく、荒れさせてしまったら、
あっという間に田んぼとしては機能しなくなる。

今の現状で、これを小作する人はいる?
そりゃ、酒米も作れるような素晴らしい土ではあるけれど。
企業が農業に進出して、土地を欲することでもなければ
きっと続かないと思う、だって労働力がないのだもの。

それでも田んぼに対する愛着は、どこのお宅にも深く残る。
荒れさせたくなければ自分で耕すしかない。
むしろ、「お前若いのだから、うちの田んぼもやらないか?」なんて
近隣の他の田畑を押し付けられてしまうという状況になるほうが
ずっと可能性が高いのではないかしら。

使い道のない山、独り土日に耕すには広すぎる田んぼ。
これらを相続したって、延々と固定資産税を搾り取られるだけ。


「まぁ、まだ10代の学生ですから。
 進路は自分自身が判断できるようになってから
 彼ら当人に決めさせますね」

なんて言葉を濁した。


逆なのよ、きっと。
土や、土地の広さを活かした仕事や趣味を自らするのではないのなら
田舎なんかに住むべきではない。



恵方巻・・・
毎年我が家は自宅で巻いていましたが、
今年は手抜きして買ってしまおうかな、と思っています。

いつも巻いてくれる子どもたちが今年は少々忙しいし。
どうせたかだか3本で済んじゃうし。


この行事? 1975年ごろからの関西発祥の風習、なんて説があります。
私の知っている説のひとつは、生活協同組合=コープこうべが
「節分に巻き寿司を!」なんてキャンペーン?を始めて
それがコンビニに広がり、全国へ、という流れというもの。

それまで「七夕にそうめん」とか「ひな祭りにちらし寿司」はありましたが
節分に巻きずし、は記憶になくて、
コープこうべが貼ったポスターに
ふーん、そんなのあるんだぁ、ってびっくりしたことを覚えているので、
この説はかなり正確なのかな、と実体感していますが、
最近聞いたもう一つの話は以下のとおり♪


頃は大正時代。
正月(旧正月なので節分の頃ですね)に京都 祇園さんを訪れた成金のお客様が

「正月だ。祝いの日なのだから『寿司』を作れ」

と注文したのだとか。

しかしながらお正月には刃物を使ってはならぬという風習がありました。
(だから事前にお節料理が準備されるわけです)
で、お座敷の女将さんがお出ししたのは、

巻きずし

確かに寿司ですよね。
そして、

「せやけどお客さん、
 お正月は刃物使えまへんのんどす
 せやから悪おすけど、このまま、丸かぶりしておくれやす」

というわけで、旧正月の節分の日、
切らない巻きずしを丸っと食べる風習ができたらしい。

上手に切り返す女将さん。素晴らしい。

スーパーとか海苔屋さんの陰謀だ、とかいろいろ説はありますが、
私はこの説が、ほんわりと気に入っています。


「平成総括」でもよいかと思ったのですが、
年明け最初の投稿なので字面のよい文字にしたくて「元」です♪

年があけました。
皆さま穏やかなお正月をお迎えになりましたでしょうか?
私は超のんびりまったり、こんなニートな時間を過ごしてよいのかしら、
と思うくらいの安穏とした一週間を送りました。

寮生活生が学校に戻り、
今日は受験生も「始業式だけは登校だってさー」と出かけてゆき、
無茶苦茶久しぶりの一人の時間を過ごしています。


年末、TVでは「平成の振り返り」が放映され、
あぁこれも、あれも「平成」のことだったのだなぁ、と思い返していました。
あちらこちらでみなさんがお書きになっておられるとおり、
昭和の戦後40年であまり見なかった大きな地震、水害、
「平和に成る」元号とはならず、災害が多かったなぁと改めて感じます。

新元号の発表は4月1日だとか。
発表したけど「エイプリルフールでーす♪」ってのはないよね(^_^;
なんてバカなことを考えつつ。

次の元号に、何かの期待があるかと言われると・・・
あちらこちらの地震の情報の多さにビビる毎日だし、
温暖化のせいだか、強烈な台風は想像を超えているし、
天災は避けられないしで、
なんだか不安な気持ちがいっぱい起こっています。

更に、消費税の増加、
外国人労働者の受け入れ増加、
世界情勢も自国主義に傾いていて、
お隣の国とのやりとりもイライラ、

平成元年ってまだバブルの勢いが(しぼみつつあったけれども)残っていて
ここまでは暗くなかったかなぁ。
・・・あまり光明が見えないなぁ・・・

そういえば、「M(明治)T(大正)S(昭和)H(平成)」と違うアルファベットにしなくてはならないから、という理由で、
元号は「AIUEO」か「KNYRW」のどれかじゃないかって
誰かが言っておられましたが、
IとOは数字と見間違いやすいので避けるのではないかな・・・
となると、それこそ「光明」とかありそうですよね(笑)
(光明って大昔の天皇様のお名前にありましたよね、じゃダメかな)


自分自身の「平成」は総じて子育て&介護に終始した時代でした。
次の元号は今の私の不安な気持ちとは逆となり、
災害少なく、浮上していく時代であって欲しい。

ただただ、穏やかに明けたことを素直に喜びましょうか。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。



ちょくおうまいしん ためらうことなくまっすぐ前進すること


15歳で親元を離れた末っ子、年末の帰省となりました。

実は手放すのは不安で仕方がなかったのです。
頼りない・忘れ物が多い、が代名詞だったコです。
レポート提出にうるさい、
平均点が50点台でも60点以下は赤点で
容赦なく切り落とされるというあの学校で
たった一人でやってゆけるのか。。。

中学の担任(20代女性)曰く
「にゃーん、って懐くから『もうっ、この子はっ』ってなっちゃって本気で叱れないタイプ」らしい彼、
今までは周囲誰もが認める、不思議ちゃん系というか、
いつまでも「みんなの弟」ポジションだったのですが。
とりあえず後期中間までは赤点なしで乗り切りました。
寮生活半年以上となって、しっかりしてきた感がありあり。

可愛い子には旅をさせなくてはいけないんだなぁ。
頼もしい成長ぶりです。


逆に、真ん中は現在迷走中。
このコは道さえ決まって走り出せば力強いコじゃないかと感じるのだけれども。
あれこれと考えてしまうからこそ、迷うんだものね。
寄り道もまた、ムダではないと信じるしかないかなぁ。


何かのTV番組で、
40代になると親と過ごせる時間は累計時間としては1か月もない
なんて話を聞きました。
そうよね、住まいが違えば逢える時間は必ず少なくなる。

自分の親ともそうだけれども
自分が子どもと一緒に過ごす時間だって同じなんだなーと思う。

「親」として何かしてあげられる時間も事柄も、
もうそんなにたくさんはないのでしょう。
まぁ、やれる間は踏ん張りましょう。

午前中は長男の通院、午後からは末っ子のお迎え。
同じ1日の間に、50km 往復+100km 往復=300kmの運転でした。
私もがんばった、エライ、と自分で褒めておく。
しかし一番大変だったのは愛車かもしれない、
今日はよいお天気だから洗車してあげよう(笑)


母子家庭福祉の関連で資格試験の講座が無料で受講できることに気付きました。
そういえば、私はシングルマザーなのだった←自覚があまりない(笑)
申し込んでみました。

勉強する、だなんて、わくわくする♪
申込数多数だと抽選なんだってー。当たるかなぁ?
もし外れても「次」はあるはず。
「母子家庭=高校生がいる」の肩書がある間に受講できればいいかな。

自己学習していた割と簡単な資格試験も早く受験しなくちゃ。
↑コレいつから言ってるんだって話。
問題集1冊やりきったのですが、受験日が合わずでのびのびになっています。
もう忘れちゃっている単元もあるから復習して、年明けには必ず受験しよう。

やることがあるっていうのをシアワセに思えることに感謝。


らんちょうのしょく 要するに食べ過ぎ!ってこと


我が家の愛猫。
トイレ行く前ににゃぁにゃぁ鳴く。
どうやら便秘のご様子・・・。
いきむと痛いのかなぁ。

病院いかなくちゃ、かしら・・・
下剤も可哀想だけれども仕方がないよねぇ(涙)


狭苦しいマンション住まいになって
お猫サマとの距離は断然近くなった気がします。
一軒家時代もお布団には潜り込んできたけれど、
抱っこなんぞしたら「居心地ワルイ」的顔つきしてました。

が、狭い家で顔を突き合わせて過ごしていると、
お互い信頼関係ができるのでしょうね。
シゴトから帰ってくると「お帰り~♪」ってお出迎えしてくれるし
ずっと後追いしてくれるし、
可愛いのなんのって(*^_^*)

ただ、
前の家だと一階二階と好き放題走り回っていたのが
現在はせいぜいキャットタワーの上り下りだけになって、
どんなにダイエットフードを食べさせても太ってしまうのが悩みの種・・・

この便秘も運動不足かにゃー(涙)
どうにかしなくちゃ、なんですが。

・・・ハムスターのように、カラコロカラコロと走り回る
ランニングマシーンの猫用でもあればいいのに(苦笑)




祥月命日
働きすぎで勤労感謝の日に逝ってしまったダンナ。
もう5年経っちゃいました。

中学入学したてだった真ん中は
年が明けたら受験真っただ中になります。

早いなぁ。


墓参り後の道すがらに、お肉屋さんがあるという理由で
ここ数年この日の晩御飯は「和牛」

ゼータクだよなぁ、と思いつつ
生きてればこんな美味なもの食べられるのに、
勿体ないことしたわよね、
と夫=写真 に見せびらかしつつ、お家焼肉。

美味なもの食べて。
さぁ、次の1年も元気で重ねましょうか。


ちすうれいひ
知恵を得た人得ようとする人であればあるほど、他者に対してはへりくだり礼を尽くす ということ


先日、思い立って京都の北野天満宮へ出かけました。
街中をぶらぶらと歩き回くのは好きなのですが、
帰宅したい時間が決まっていたので、市バスを利用することにしました。

 ・・・ぎゅうぎゅう!

鉄道駅から天満宮前までのバス、乗車率何%よ?ってくらい満員で。
いやー、疲れました。
学生時代から20代半ばまで、バスで通勤通学していましたから
市バスには慣れているハズなのですけれども。

乗っている人の、たぶん8割がたは観光客でした。
半分がアジアンで残り半分は言葉から感じると英語ではない圏の、
多分スペイン語(イタリア語ではなかった)あたりの皆さま。
こりゃ、市民の利用者、大変やな、って思いました。

「満員ですから前にお詰め下さい」って
運転士さん何度もアナウンスしていたけれども
言葉がわからないのか動かない方多数、
乗った場所にぺたりと止まって動かなかったり。
必然、乗車口付近はもう、おしくらまんじゅうもかくやというばかり。

そうなると駅前はともかく、途中のバス停から乗る人は
必ず乗車口のステップあたりのごちゃっとした塊の中に
突入しなくちゃいけません。
数駅先のバス停までチョイ乗りで利用ってのは敷居高いだろうなぁって。
だとしたら何のための、誰のための市バスなんだろ?とも。

運転士さん、丁寧でしたよ?
バスが停止する折は「信号で停止です」
そして青になったら「動きますのでご注意ください」「次は右に曲がります」
慣れている路線なら身構えますが、観光で初めてのバスで
ぎゅうぎゅうで手すりも持てずにいましたから
そういうアナウンスは助かりました。

その、京都市バス、四年生の男児が「ボタン」を押したのにドアを開けず発車、
その後バスを追いかけた男児が縁石に躓いて転んだにもかかわらず
救助もせず走り去ったとして、運転士を6か月停職処分、
結局運転士は退職した、との不祥事でニュースになっています。

ニュースに対するコメントにいろいろありましたが、
他の地域では「乗車ボタン」がないバスも多いのですね?

京都ではないけれど私が利用していたバスには乗車ボタン、ありました。
バスがワンマンカーに変わり、バスの乗車は後方の乗車ドア、
降りるときは運転手横の前のドアとなったおり、
後方乗車ドア側に、運転手と会話ができる「インターホン」がついたのです。

「乗るのに介助が必要な人が介助を乗務員にお願いする」とか
「このバスは〇〇に行きますか?」の問い合わせだとか
何か物が間違って挟まってしまったとき、挟まったから開けて!とお願いしたり、
始発でドアを閉めて時間まち中に「乗ります!開けて!」と伝えたりとか
そういうときに使うものだと思っていました。
そういうものだと思っていました、いつそう教えられたのかなぁ?
普通、ボタンは押さないし、押している人見たことないです。

時刻8時20分。
運転士は反省のうえ、
「満員のバスで時刻も遅れていたので次のバスに乗って欲しかった」
との発言。

この男児、発車時間を過ぎてドアを閉じたバスの乗車ドアを
「開けてぇ!載せてぇ!」とドンドン叩いている乗客と同じ、と感じました。

市バスの規定では
「発車前に乗車ブザーが押された場合は再度扉を開けて乗車させ、利用客が転倒などした場合にはバスを停止させて負傷の有無を確認するよう定めている」
らしいのですが
前半はともかく負傷の有無を確認する「利用客が転倒などした場合」の場所はどこ?
車内や、バス停での乗車行動の折、ということではなくて?
動いているバスに並走してボタン押し続ける、なんて事態はこの規定の想定内なの?

まぁ、車体のすぐそばで、車体に触れながら走る人がいたら
危なくて走らせられないし走らせちゃいけないのは確かなので
運転士に罪がないかといわれたら、それは「ある」のでしょう。
でもなー。

8時20分にバスにのろうとする小学生って何?
9時始まりの小学校もあるのかな?私学だったりすると。
危機管理だよ、動いている車に触るのは
遅刻より命の危険があるよ?
ちゃんと危険をいい含めてから、バス通学させて下さい>保護者さん
そして遅刻しないような時間に家を送り出してあげてよ。

それを「知恵」といいます。
ちゃんと自分だけではない、社会との共存を
円滑に過ごすための「知恵」

実際のところ、発車時間越えのドアをあけて、
ぎゅうぎゅう詰めの車内に乗せようとすると考えましょう。
隙間がなければドアを閉めるにも「詰めてくださいー」ってアナウンスして
ようやくドア閉め、これ、1分以上かかったりします。
まして言葉が通じない人が既に乗車なさっていたら、更に動きが悪い。
市バスはドアが閉まらないと発車できないしくみになっています。
そしてドア傍にセンサーがあって、何かの影を感知すると
ドアは閉まらないように設計されています。

そのバスの中にはすでに多数乗客が、
しかもぎゅうぎゅう詰めのストレス持ちながらいるわけです。
次に電車に乗る人もいるでしょう、電車の発車時間はたいてい定時ですよ。
バスが遅れたからって電車は待ち合わせしてくれませんし。

・・・私が運転士なら
「満員ですし時間ですので、次のバスにお乗りください」
「危ないので離れてね」
ってインターホンで会話する程度で、載せないことを選ぶ、たぶん。

発車時間に間に合い、乗っている乗客だって「お客様」ですから
ないがしろにはできない、権利は同じですよ。
どっちもこっちも、よい顔なんてできないですから選択でしょう?
だったら「時間通りに待っていない」という点で
男児に遠慮をお願いすることに、私なら躊躇はしない。

運転士ってストレスフルな職業なのね・・・。
運転士だけじゃなく、サービス業はすべからくそうなのかも。

田舎じゃないもの、次のバスは5分程度待てばきますよ。
発車時間遅れていたのならそれよりもっと狭い間隔できます。
流石に一番前で待っている乗客を乗せないというのはないと思います。
あ、でも満車で「いっぱいだから」って乗車拒否されることもありましたねぇ…。
けれど、エレベータだって重量オーバーになったら乗れないよね?
次まで待つよね?
それと同じで仕方がないって感覚がありますよ、
乗車定員はないのですっけ、バスは。

まぁね、確かに乱暴な運転士さんもおられました。
運転が荒っぽかったり、言動が??だったり。
でも私が利用したときのバスのように丁寧な方もおられるんですよ。
一括りにされたら可哀想だなぁ・・・。

「載せろ!」
ってばんばんドア叩くような横暴な人を全部拾っていたら、
定時運転なんて無理なんじゃない?
キリがないでしょ?
「仕方がないよね」と身を引くという感性がどうして育っていないのかな?

「お客様の権利」も大切だけれども
それが優先されるのは
お客様の側も提供する側に対してある程度の配慮や
認めができる相手であることが前提のような気がします。
それを、良識という知識というのだと思います。

そういう「良識」の線引きの有無を無視して
「規定にあるから」ということだけで判断する、
四角四面になってきているのかな。

「学習と身構えないままでも身に着けているべき良識」が少なくなり、
こういう状況なのだとしたら。
今後移民の方がたくさんになると、阿吽の呼吸で行う忖度はありえなくなり、
つまりは「良識」という今まで家庭や学校などで無意識に躾けられた何かが
どんどんと変わって、もしくはなくなっていくのでしょうか。

規定という取り決めだけでガッチリ固めないと、
何もかもがだめになるのかもしれませんね。

あぁ、肩凝りそう。





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