「白蓮れんれん」 読了
2014年7月18日 日常週3日、片道2時間を通勤しているため。
ここのところ、すごい勢いで文字を読んでます。
リンクのお方のように上手にレビューは書けないですけれど、
美貌 備忘のため、これからちょこちょこ書いてみます。
ざっと電車内で斜め読みだけだから、細かい部分が書と違っていても怒らないで下さいね。
数ヶ月前から書店平積みでよく見かけるようになったこの作品「白蓮れんれん」
要はNHKの朝ドラ「花子とアン」に白蓮さんが出演しているから関連商品、ってことなのでしょう。
・・・というわけで、
当初、私の脳内では白蓮(燁子)=仲間由紀恵サンとして話が展開していくのです。
でも記述は違うのね。
仲間白蓮のイメージは完璧すぎる女性なのよ。
でもこの本の蓮さま・・・ではなく燁子表記です、もちろん・・・は着付けが上手くなく、胸元がだらしない、とある。
ここでようやく、朝ドラの呪縛から解き放たれて、この本自体と向き合った私。
延々と書き綴られてゆく、福岡での生活。
朝ドラ中で描かれているのはほんの一部でしかない、鬱屈してゆく燁子の暮らしぶりが書き綴られている。
嫁ぎ先の福岡の環境。・・・そりゃ、ヤだよ。
出戻りで嫁いだとはいえ、嫁ぎ先の家には行くまで知らされていなかった存在、ダンナの実子が1人、養子が1人(後に2人となる)いる。
更に、お妾さんは数知れずでしかもその内の一人は女中頭で家政を取り仕切ってる(このあたりは朝ドラでも描かれているけれど)
その上、ダンナは既に種なしで、自分に実子ができることはありえないとくれば。
直系子孫を産むことができないのなら、「家」の単位で彼女は本当に死ぬまで独りきりで居続けなくてはならないということ。
自分に与する養子をとることはできたとしてもやはり実子でないとすればその立場は弱いだろうし、ダンナである伝右衛門と仲良くする手段しかないとしても、女性が燁子一人ではとても満足しないであろう人物であるのは明白なのだから。
女性の立場とすれば本当に八方ふさがりだったのだと判る。
身分の高さを自覚し、学もある燁子であれば尚のこと、「この場所から逃げ出したい」という思いが強かったと思う。
今の女性なら「冗談じゃないわよ、ケッ」って、好きだよ光線だしてくれる年下の男なんぞ現れたらとっとと走るね、間違いないよ。
それがあの当時だと「大仰な事件」に祭り上げられるんだよなぁ・・・。
しかもこの人、既に一度政略結婚で失敗して、離縁後幽閉されたという経験の持ち主なのですよね。
逃げ出すことにさえも希望が見いだせなかったはず。
結果としてその鬱屈が「歌への昇華」となったのでしょうか。
ただ、その辺りのくわしい記述はこの小説にはない。
歌だって数首載せられているだけ。
「白蓮」が世間一般的にすごく評価された歌人である、という文章はあっても、
「歌人 白蓮」ではなく「女性 燁子」のみに焦点があてられている。
とにかく物語は燁子にまつわる「恋愛」に対するあれこれを年次順に書き連ねられる。
著者 林真理子氏は私にとってはエッセイストの印象が強い。
あとは「週刊朝日」での対談のホストとしての林さんのイメージ。
だから・・・こういう文章を書くのが少し意外だった。
文体は読みやすいけれど、軽薄ではない。
燁子という人間が、福岡においてどんな生活を送っていたか、綿密に取材なさっているのだと感じる。
小説家林真理子を少し侮っていたな、と思う。
この時代の「女性」を描くためにか、著者は出てくる女性ひとりずつを燁子と対比している。
観点は3つ。
貞淑であるか奔放(今の時代じゃ充分に普通な感覚なのだけれど)であるか。
そして特権階級かどうか、お金持ちかどうか。
庶民である伝右衛門の妾たちは貞淑とは程遠い。
妾ではあるが、純粋に恋愛をし、妾をやめ、逃げ出して嫁となる記述も何人かある。
それがこの時代の現実。
であるならば、婚前の貞淑を求められているのは特権階級(つまり貴族かそれに肩を並べるような金持ちか)に限られているのかも。
だから「貞淑な妻」のサンプルは、すべて特権階級に属す女性だ。
本文の目線は燁子本人が大筋なのだが、時折、伝右衛門の妹である初枝目線が混ぜ込まれる。
最終的に、金持ちの生活と身分を捨て、つまり貧乏を選び、しかし世間一般には「貞淑」とは程遠い行動を起こす燁子と対極なのがこの初枝。
初枝は貴族階級の三男坊(だったっけ?)と薦められるままに結婚し、貧乏となり、貞淑であっただろうが失意のまま亡くなってゆく人物で、しかも燁子の想い人である龍介に淡い恋慕をしていた様子まで記される。
初枝の目線に立ったとき「燁子」は異端。
恐らくそれがこの時代のスタンダード。
その目線が混ぜ込まれることで、燁子の孤独がより一層浮き彫りになる。
時代の中で、流行の先端を生きようとし、あがく自分を見つめながらエッセイを書いてきた林氏の筆は、まずは特権階級出身でありながら成金へと下った燁子の忸怩たる思いを暴いて描く。
貞淑な妻として描かれる久保より江に対しては、文面だけを読めば燁子は下げずんだ目線を向けている。
しかし、読んでいる私には、福岡の知識階級の博士を夫とし賢婦の誉高いより江にはむしろうんと「嫉妬」を感じているように思える。
そして、歌人白蓮と同じく才能への評価も高く、しかし隠れて不倫をしていた九条武子は当初『同士』として描かれているのに、白蓮事件に臆し、結局貞淑な妻のまま過ごすことを選ぶと、燁子は仕方がない、と無関心なのかその後の後日譚さえもない。
成功者に対する劣等感を描き、高みを目指さない者に対しては自らの土俵にさえもあげない、これはエッセイストとしての林真理子の骨頂の一つではないか。
文献から切りだされた「恋歌」の数々は重い。
そして後に添い遂げる龍介とのやりとりの書簡、これは恐らく実物そのものの書き写しなのでしょうが、それらがとても素晴らしいのです。
宛名ひとつ、署名ひとつで、打ち解け合う二人の様子が想像できる。
重い「恋歌」と書簡、そこから想像する感情と実際の記録たち。
燁子という時代と身分とに振り回された女性が、時代を驚愕させる行動力の元、苦難を乗り越え最後は80歳を越えるまで愛した人と添い遂げたその記録に、林真理子という「生身の高みを目指すことを宣言している作家」が出会った。
数百にも上ったらしい書簡と、歌の中から、どれを選び出すか。
そこにも林氏のセンスが光る。
「行動を起こす強さのある者」と「現状を受け入れるだけの者」
これが実在の人物のことを書いてあり事実だったのだろうけれど、初枝の最後はあまりにも淡々とついでのように書かれている。
林真理子の視点は、常に「強くて上を目指す女性」に寄り添っている、多分彼女自身がそうやって時代と戦ってきたヒトだから。
燁子への賛美だけではないところが、林真理子さんらしいと感じた。
欲を言うなら、もっともっと「恋歌」や「書簡」で燁子を感じたかったかも、とも思う。
・・・でもそれは、「歌集」を自分で読み解くべき、なのでしょうね。
ここのところ、すごい勢いで文字を読んでます。
リンクのお方のように上手にレビューは書けないですけれど、
ざっと電車内で斜め読みだけだから、細かい部分が書と違っていても怒らないで下さいね。
数ヶ月前から書店平積みでよく見かけるようになったこの作品「白蓮れんれん」
要はNHKの朝ドラ「花子とアン」に白蓮さんが出演しているから関連商品、ってことなのでしょう。
・・・というわけで、
当初、私の脳内では白蓮(燁子)=仲間由紀恵サンとして話が展開していくのです。
でも記述は違うのね。
仲間白蓮のイメージは完璧すぎる女性なのよ。
でもこの本の蓮さま・・・ではなく燁子表記です、もちろん・・・は着付けが上手くなく、胸元がだらしない、とある。
ここでようやく、朝ドラの呪縛から解き放たれて、この本自体と向き合った私。
延々と書き綴られてゆく、福岡での生活。
朝ドラ中で描かれているのはほんの一部でしかない、鬱屈してゆく燁子の暮らしぶりが書き綴られている。
嫁ぎ先の福岡の環境。・・・そりゃ、ヤだよ。
出戻りで嫁いだとはいえ、嫁ぎ先の家には行くまで知らされていなかった存在、ダンナの実子が1人、養子が1人(後に2人となる)いる。
更に、お妾さんは数知れずでしかもその内の一人は女中頭で家政を取り仕切ってる(このあたりは朝ドラでも描かれているけれど)
その上、ダンナは既に種なしで、自分に実子ができることはありえないとくれば。
直系子孫を産むことができないのなら、「家」の単位で彼女は本当に死ぬまで独りきりで居続けなくてはならないということ。
自分に与する養子をとることはできたとしてもやはり実子でないとすればその立場は弱いだろうし、ダンナである伝右衛門と仲良くする手段しかないとしても、女性が燁子一人ではとても満足しないであろう人物であるのは明白なのだから。
女性の立場とすれば本当に八方ふさがりだったのだと判る。
身分の高さを自覚し、学もある燁子であれば尚のこと、「この場所から逃げ出したい」という思いが強かったと思う。
今の女性なら「冗談じゃないわよ、ケッ」って、好きだよ光線だしてくれる年下の男なんぞ現れたらとっとと走るね、間違いないよ。
それがあの当時だと「大仰な事件」に祭り上げられるんだよなぁ・・・。
しかもこの人、既に一度政略結婚で失敗して、離縁後幽閉されたという経験の持ち主なのですよね。
逃げ出すことにさえも希望が見いだせなかったはず。
結果としてその鬱屈が「歌への昇華」となったのでしょうか。
ただ、その辺りのくわしい記述はこの小説にはない。
歌だって数首載せられているだけ。
「白蓮」が世間一般的にすごく評価された歌人である、という文章はあっても、
「歌人 白蓮」ではなく「女性 燁子」のみに焦点があてられている。
とにかく物語は燁子にまつわる「恋愛」に対するあれこれを年次順に書き連ねられる。
著者 林真理子氏は私にとってはエッセイストの印象が強い。
あとは「週刊朝日」での対談のホストとしての林さんのイメージ。
だから・・・こういう文章を書くのが少し意外だった。
文体は読みやすいけれど、軽薄ではない。
燁子という人間が、福岡においてどんな生活を送っていたか、綿密に取材なさっているのだと感じる。
小説家林真理子を少し侮っていたな、と思う。
この時代の「女性」を描くためにか、著者は出てくる女性ひとりずつを燁子と対比している。
観点は3つ。
貞淑であるか奔放(今の時代じゃ充分に普通な感覚なのだけれど)であるか。
そして特権階級かどうか、お金持ちかどうか。
庶民である伝右衛門の妾たちは貞淑とは程遠い。
妾ではあるが、純粋に恋愛をし、妾をやめ、逃げ出して嫁となる記述も何人かある。
それがこの時代の現実。
であるならば、婚前の貞淑を求められているのは特権階級(つまり貴族かそれに肩を並べるような金持ちか)に限られているのかも。
だから「貞淑な妻」のサンプルは、すべて特権階級に属す女性だ。
本文の目線は燁子本人が大筋なのだが、時折、伝右衛門の妹である初枝目線が混ぜ込まれる。
最終的に、金持ちの生活と身分を捨て、つまり貧乏を選び、しかし世間一般には「貞淑」とは程遠い行動を起こす燁子と対極なのがこの初枝。
初枝は貴族階級の三男坊(だったっけ?)と薦められるままに結婚し、貧乏となり、貞淑であっただろうが失意のまま亡くなってゆく人物で、しかも燁子の想い人である龍介に淡い恋慕をしていた様子まで記される。
初枝の目線に立ったとき「燁子」は異端。
恐らくそれがこの時代のスタンダード。
その目線が混ぜ込まれることで、燁子の孤独がより一層浮き彫りになる。
時代の中で、流行の先端を生きようとし、あがく自分を見つめながらエッセイを書いてきた林氏の筆は、まずは特権階級出身でありながら成金へと下った燁子の忸怩たる思いを暴いて描く。
貞淑な妻として描かれる久保より江に対しては、文面だけを読めば燁子は下げずんだ目線を向けている。
しかし、読んでいる私には、福岡の知識階級の博士を夫とし賢婦の誉高いより江にはむしろうんと「嫉妬」を感じているように思える。
そして、歌人白蓮と同じく才能への評価も高く、しかし隠れて不倫をしていた九条武子は当初『同士』として描かれているのに、白蓮事件に臆し、結局貞淑な妻のまま過ごすことを選ぶと、燁子は仕方がない、と無関心なのかその後の後日譚さえもない。
成功者に対する劣等感を描き、高みを目指さない者に対しては自らの土俵にさえもあげない、これはエッセイストとしての林真理子の骨頂の一つではないか。
文献から切りだされた「恋歌」の数々は重い。
そして後に添い遂げる龍介とのやりとりの書簡、これは恐らく実物そのものの書き写しなのでしょうが、それらがとても素晴らしいのです。
宛名ひとつ、署名ひとつで、打ち解け合う二人の様子が想像できる。
重い「恋歌」と書簡、そこから想像する感情と実際の記録たち。
燁子という時代と身分とに振り回された女性が、時代を驚愕させる行動力の元、苦難を乗り越え最後は80歳を越えるまで愛した人と添い遂げたその記録に、林真理子という「生身の高みを目指すことを宣言している作家」が出会った。
数百にも上ったらしい書簡と、歌の中から、どれを選び出すか。
そこにも林氏のセンスが光る。
「行動を起こす強さのある者」と「現状を受け入れるだけの者」
これが実在の人物のことを書いてあり事実だったのだろうけれど、初枝の最後はあまりにも淡々とついでのように書かれている。
林真理子の視点は、常に「強くて上を目指す女性」に寄り添っている、多分彼女自身がそうやって時代と戦ってきたヒトだから。
燁子への賛美だけではないところが、林真理子さんらしいと感じた。
欲を言うなら、もっともっと「恋歌」や「書簡」で燁子を感じたかったかも、とも思う。
・・・でもそれは、「歌集」を自分で読み解くべき、なのでしょうね。
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